ハル立ツキョウノ

変心HEROがいてもいい

「ダフ・マッケイガン、ガンズ・アンド・ローゼズのステージに飛び入り」
http://www.barks.jp/news/?id=1000064936

「Guns N' Roses アクセルとダフが17年ぶりに共演!」
http://www.vibe-net.com/news/?news=2004900

【追記】「ダフ・マッケイガン、ガンズ・アンド・ローゼズのギグ飛び入りを語る」
http://www.barks.jp/news/?id=1000065142

【追記】「スラッシュ、ガンズ・アンド・ローゼズのリユニオンを祝福」
http://www.barks.jp/news/?id=1000065431



私は年を重ねるにつれ、根気が無くなったように思う。
どういう時にそう感じるかと言うと、腹を立てた後だ。
怒りが、長持ちしない。
私はもう持久戦を戦えない。
若い頃には武士は食わねど高楊枝とばかり、たとえ兵糧攻めされようとも飢え死に覚悟の篭城に打って出る気骨があったものだが、今では太平の世にあって抜刀の仕方を忘れた老中よろしく、進んで無血開城してしまう。
親しい相手ならば、「もう仲直りしたくなっている」
そうでない相手ならば、「もうどうでも良くなっている」
「許す」と言うよりは、「諦める」と言う心境に近い。音楽に代弁してもらうとすれば、Guns N' Rosesの「GET IN THE RING」よりは、Nirvanaの「YOU KNOW YOU'RE RIGHT」に近い。
私の怒れる心は、すぐに冷めてしまうのだ。それは一種の興ざめだろうと思う。
何しろ怒るということには相当のエネルギーを要する。いたく疲れる。
瞬発力はあっても持続しない。私のはらわたを煮え立たせる有機焜炉は、速筋繊維で出来ているものと思われる。
思うに、人間は本来、そう長くは怒っていられないように出来ているのではなかろうか――。
消費期限切れの怒りを腹の中で沸騰させ続けることは、健康を害するばかりか、寿命を縮めるのではないかと懸念する。
憤死、という言葉の存在を知ったのは、健康や寿命など気にも掛けぬ高校時代であったと思う。確か、世界史の用語集の中に見つけたのだ。黙読していた私の無音の脳内でそれは、なんと印象的に響いたことだろう!
以来、この“憤死”の二文字は、私の言語野に染みのように在り続け、平素は黙しているものの、ふとした折に無言のサイレンを発しては、私を空恐ろしい心地にして止まない…。
怒りを誤魔化さずに生きる――その情熱、一貫性には、ある種の感服を覚えるものの、
憤りながら死ぬる――その無念、辛酸、いかばかりであろうか。
私は、怒りは大切な感情の一つであると信じている。
だが憤死するくらいならば、骨抜きになったと言われても良い…怒りを手放したい。
手放すためには許したい、許せなかったら忘れたい。
許すことはできなくても、忘れることはできるだろうか?
怒りながら死んでいくよりは、忘れながら生きていく――そうすれば安らかに年を取ることができるだろうか?
忘れる、という現象は、自己嫌悪を誘発するのみならず、自己回復機能の一端をも担っているのではないかと思う。
自浄作用として悪い記憶を消す。副作用として良い記憶を消す。
時間は良い感情も悪い感情も風化させる。
希釈した感情を筆にのせて絵を描いても、発色は良くないかもしれない。しかしその淡い色合いは、もはや持久戦を戦えない老兵の心を慰めるかもしれない。
年を重ねたことにより良くも悪くも変わってしまった自分の今現在の心を受け入れることができれば、そこに至るまでに通り過ぎて来た良いことも悪いことも引っくるめて必要だったのだと…、過去を丸ごと引き寄せたのち、何一つ見殺しにすることなく解放し解放され、放れる時には有り難うと…、遂には肯定することができるだろうか?


まあそんなこんなで…
上のニュースを見て、アクセルの怒りも時間が経つにつれて和らいできているのかなあと思った。
怒っていないロック――もアリだと思う。
いつか、アクセルから過去に対する怒りが消えたとしたら…それはアクセルが「変わった」、ということにほかならないのだろうな。
昔のアクセルではなくなってしまった、その時のアクセルを、私は喜ぶだろうと思う。
延々と怒り続けるのは辛いだろう…。
アクセルに対して、に限定したことではなく、誰かに対して――
君だけは変わらないで欲しいと願い、いや変わって欲しいと願い、
極から極へ振れたりするけど、最終的には…
私個人としては、人間の「変わる」という側面に、より多くの魅力を見いだすのではないかと思う。

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